紅葉山文庫とは
慶長8年に江戸幕府を開いた徳川家康は、開府に先立つ同7年(1602)、江戸城内の富士見亭に文庫を設けたと伝えられ、この施設は幕府蔵書庫の前身となりました。家康は、公家、武家、寺社に書籍の貸出や献上を求め、中世以来の金沢文庫本を含む、当時最善の蔵書を築きましたが、晩年以降、草創期の幕府に主要な善本を贈り、知識の上でも、その礎石を置いたと言えます。
幕府の文庫は、寛永16年(1639)江戸城紅葉山の地に移転、それ以来、専従の部局である書物方の書物奉行達に護られ、幕末まで存続しています。この幕府公用の「御文庫」を、明治以降には「紅葉山文庫」と呼んでいます。
前身から数え、266年間続いたこの文庫は、贈呈や移管による減失を経ながらも、日本、中国、朝鮮で書写、印刷された典籍を中心に、おおむね増加を続け、幕末には5,789部114,095点を数えるに至っています。蔵書としての紅葉山文庫は、刻々と変化する動態でありましたが、この間、紅葉山文庫本は幕府周辺の参考に供され、政治や学問に活かされたことは、言うまでもありません。
しかしそれ以上に、古代中世以来の知識や思想を、よりよく伝える善本に富み、それは日本だけでなく、中国や朝鮮の古典についても同様であったことから、東アジアの文化継承に対する紅葉山文庫の貢献は、計り知れないほどの大きさとなりました。
明治政府に引き継がれた紅葉山文庫本は、火災等による若干の消失を受けながら、大学、太政官正院、修史局等と管理部局を変え、明治18年(1885)に発足した内閣文庫の所有とされるまで、その大勢が保たれていました。しかし同24年、内閣文庫貴重書の皇室への移管に伴い、漢籍善本を中心に、その多くが宮内省図書寮に移されることとなりました。ここに旧紅葉山文庫本は大きく2つに分岐し、皇室と政府、それぞれの蔵書の一部として扱われて行く運びとなりました。その結果として現在、紅葉山文庫旧蔵の原本は、内閣文庫本を受け継ぐ国立公文書館および、宮内庁書陵部図書寮文庫の管理下に置かれ、所定の条件の下で公開されています。
明治初年の新政府管理期に、旧紅葉山文庫本を示す徴表として、「秘閣図書之章」「紅葉山本」等の印記が捺されています。「秘閣」とは、宮中に秘蔵する最高水準の蔵書庫を意味します。これらの印記は、現在でも、紅葉山文庫本を識別するための主な目印となっていますが、政府内での使用貸借の関係で、一部の図書には捺されていません。また明治期にも、図書若干の増補捺印がありました。
紅葉山文庫本の分岐から1世紀あまりを経て、現在その全貌は、やや不明瞭となりつつあります。しかし、かつての紅葉山文庫が体現していた文化史上の価値に鑑みると、なお現有の知識によってその全体像を見定め、文庫の意義を振り返ることが求められます。当ウェブサイトでは、この課題に向き合うため、史料から見る紅葉山文庫、原本から見る紅葉山文庫と、2つの視点を設定し、両者を組み合わせ、対象に近付こうと試みています。この取り組みの出発点として、ひとまず成長を止めた幕末における帰属を標準と捉え、最も大切にされた徳川家康の寄贈書を手始めに、デジタル空間における紅葉山文庫の再現を目指して行きます。
(紅葉山文庫旧蔵書研究会 2023年9月)